1 「滑川」の地名について
(1)「滑川」の地名と登場
滑川は、東は海に臨み、西は阿武隈の山脈の東側の麓をなし、南は宮田、北は、田尻に接する。地域の北寄りを、北川が東流している。
「滑川」という地名が歴史上、初めて登場するのは、江戸時代である。元禄郷帳(1702年、江戸時代の行政区画を記したもの)に「滑川村」(石高963,031)と記されている。
さらに、天保15年(1844年)の滑川村鉄会所取立願書(佐藤さき家文書)によると、滑川村は、寛永16年に田尻村より分村したと記されている。
(2)「滑川」の地名の由来
どうして「滑川」という地名になったかについては、はっきりしないが、大きくいって二つの説がある。その1は、その土地の特色から地名としたとする説。その2は、その地を支配した人の姓氏が地名となったとする説である。
<その1説>
この地を流れる北川を、地域の人々は「ドンブラ川」と言っていたように、流れが滑らかで、滑ったり、転倒しやすい川だったことから、「滑川」の地名になったという。
「滑川」の地名はほかにもある。茨城県南部の石岡市から小美玉市を流れる、園部川の下流地帯は滑川と称していた。鎌倉の滑川、富山県のなめかわ(なめりかわ)も同じような由来でつけられた地名であるという。
<その2説>
中世から近世にかけてこの地の支配者は、十王・山直城の小野崎氏の流れの者である。日立市史によると「滑川の小幡の館に小野崎直道が居住していた。延徳年間、直道が会瀬の相賀の館に移ったので、同族の小野崎通宣が住んだ」とある。同じ頃、石神の小野崎左衛門の入館もあり、両人が同一人かどうかわからないとあるが、同一人ではないだろう。通宣の祖父、小野崎通定は助川の地に入り助川氏を名乗った人物で、新編常陸国史によると、「助川氏、大門故城(常陸太田)に居る」とある。また、同国史「天下 野館址(常陸太田・水府)」の項に、「村の西の高処に佐竹家臣、滑川右衛門住す」とあるので、この接点から通定の孫、通本(後の通宣)との間に親戚関係ができ、通定が滑川姓を名乗ったのではないかという。
佐竹家中文書目録に、「天保5年、依上の池田(大子町)の内に滑川兵庫助」と記されている。依上の地は、もとは佐竹の支配地であったが、山入一党の乱の内紛で失った。その後この地は、山入氏 から白河結城氏の支配地に変わったが、それを佐竹が奪回したときの記録と思われる。滑川兵庫助は、通本ではなかろうか。通本は、多くの手柄により、藩主から「通宣」の名を賜り、小幡館に入ったので、滑川の姓氏が地名となったと推察するである。
通本(通宣)の後裔、滑川豊後守は、太閤検地での働きが認められ滑川の土地を賜ったという。佐竹の秋田移封後は、この地に土着した。寛永16年、徳川頼房の実施した寛永の検地に滑川村立会人、滑川信介助なる人物は、豊後守かその子と思われる。滑川豊後守の子孫が、日立滑川氏であり、 豊後守の墓碑は、東町2-4-13にある。
※小野崎氏・助川氏・滑川氏系図
参考資料:『滑川の歴史と景勝』画像を一部転載