(2)豊川稲荷神社

 現在の社殿は、昭和56年に地元の有志たちの手によって再建されたもので、祭神は茶枳尼天(だきにてん)と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と記されている。
 祭神、茶枳尼天は、もと杉室(現在の日鉱日立金属会社事務所辺)大雄院の寺に祀られていたものを、享保20年(1735年)、滑川の観音院の鎮守堂に移されたという(多賀群史)。その観音院にあった茶枳尼天が、どうして現在の蔵前の地に移ったかははっきりしない。
 観音院は大正2年に、稲妻小僧という賊によって、住職夫妻が殺害され、寺は放火されて焼失している。寺は大正7年に、舞台の地から約1丁、東側に寄った現在の地に再建されたが、そのとき、茶枳尼天の祭り祀はどうなったのであろうか。調べてみるに、この頃住職、高木泰隆師の妹に高木ハツ(1849年、嘉永2年2月21日生)なる女性がおり、稲荷信仰をするようになり、大田の不動尊に籠って祈祷を習い、その頃焼失して空き地となっていた、旧日立尋常小学校の跡地(現在地)に移し祀ったものと推察される。このことは、社殿に掲げられている由来記にも、「巫女、高木はつ(ハツが正しい)は、神の憑依託宣呪術を行い、大衆にご利益を与え信仰を得ている」旨のことが書いてある。
 そもそも茶枳尼天は、古代インドのヒンズー教の鬼神で、6か月前に人の死を予知し、その血を吸い、さらに死後人肉を食らったという。大日如来という仏の導きで改心し、神通力をもった善神になったという。
 稲荷神社は、古代日本では稲成りというように倉稲魂命等を祀る農耕信仰であった。倉稲魂命は百穀を司る神で、専女御饌津神、専女三狐神ともいわれる女神の尊称で、老女、白狐を意味していたあたりから、狐を神として祀るようになったものと思われる。古代日本の稲荷信仰の中に、やがて天台、真言の蜜教が山岳仏教となって入ってきて習合し、神通力をもつ茶枳尼天が狐にまたがった姿で登場し、信仰されるようになったものといわれている。

参考資料:『滑川の歴史と景勝』画像を一部転載

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