(8)仏ヶ浜と度志観音

 常陸風土記の多珂郡の項に「国宰・川原宿袮黒麻呂の時、大海の辺の石壁に、観世音菩薩像を彫り造り、今に在り。因りて仏の浜と号(なず)く」とある。この観音像が、度志観音であろうといわれ、昭和36年、茨城県より「史跡仏ヶ浜」として文化財の指定を受けた。 しかし、大田尻海岸より西方1キロ余を隔てていることから、異説もあるため、度志前を含め大田尻辺りの一帯の地を「仏ヶ浜となす」として県史跡に指定されたのである。岩壁の観音像は、崩れ落ちてその原形は認め難いほどになってしまっている。
 度志観音堂は、弘法大師が、観音像を納めて建てたといわれる古寺で、昔は縁日ともなれば1万灯が並び賑わったという。
 文明2年、相模国大雄山最乗寺8世の南極禅師は、雲水の身となって、この観音堂に参籠したのち、友部山直城主小野崎氏の寄進を受けて天童山大雄院を建立したのである。その由緒ある観音堂も、今は廃寺となって荒れ果てている。しかし、境内には度志観音中興の僧、敞慶禅師の墓碑や青面金剛、双身歓喜天等の石碑、石仏が往時の寺の様子を偲ばせてくれる。

〇 青面金剛像は、嘉永5年(1852年)11月、度志山講中の人々によって建立されたもので、舟形の石面に半肉彫りで忿怒の形相、6本の手、天邪鬼を足下に踏まえ、その像の下側には、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が彫られた石仏である。青面金剛は、仏教における病魔払除けの青面金剛法が、中世期以降、道教の三尸(さんし)の思想(人間の身には三尸(3匹)の虫がすんでおり、庚申(かのえさる)の夜に昇天して、その人の過失や悪事を天帝に告げると寿命が短くなるという考え)と結びつき、庚申信仰の本尊として祭られるようになったのである。庚申講は庚申の夜に仲間が集って徹夜で祈り、飲食して、三尸の虫の昇天を防ごうとする信仰である。
〇 雙身歓喜天は、身体は人、頭は象の姿をした二天が抱きあっている形をした石仏である。風化が甚しく建立年代ははっきりしていない。  歓喜天はインド古代神話の中で、カナバチと呼ばれ、魔生の集団の王で、仏教修行の誘惑者であったが、後に仏教に入って、魔性を排除するシンボルとして再生した神である。

仏ヶ浜度志観音

参考資料:『滑川の歴史と景勝』画像を一部転載

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