(9)海雲山観音院

 天文3年(1534年)、館主小野崎氏の要請を受け、大雄院九世吉山元利禅師により開基された曹洞宗の寺院である。本尊は釈迦如来像である。(像高は約70センチ)
 寺には、天正2年(1574年)、天竜護法尊(竜王。雨を呼ぶ魔力をもつ)を祀る天竜堂が建立され、大雄院より豊川茶枳尼天が移し祀られていた。
 この寺に、大正2年(1913年)。凶悪強盗が押し入り、住職が殺害され、寺は放火されて焼失した。(犯人は、会津生まれの斉藤英吉といい、足が速いので稲妻強盗といわれていた。) 焼失前の寺は、現在の位置より百余メートル、山側に寄った国道6号バイパスあたりにあったが、大正7年に現在地に移り、大正15年に本堂が再建された。 先代の住職・梶浦光道和尚は、日本画家で、本堂や観音堂に数多くの仏画を描き続けていた。又、平成元年には、30余の龍の彫刻を施した、総けやきづくりの鐘楼が落成している。 そのほか、寺の境内には、永い星霜を感じさせる数多くの石碑・石仏がある。

海雲山観音院

〇子育観音

 現代のように医療の発達していなかった昔の女性にとっては、安産、子育ては切なる願いであって、日頃信心している観音や地蔵に祈願を込め、仏の慈悲にすがろうとしたのであろう。 観音院の子育観音の一体には、「天保十亥十一月吉日」の文字が、他の一体には「文化十三年子年九月十九夜・女人講中安全」の文字が刻まれている。十九夜講における祈願をこめた石仏であろう。 十九夜講では、(十九日の夜、地域の婦人たちが集まり)安産、子育ての仏念供養をしたり、子育ての悩み、はやり病い、薬のせんじ方等、女の知恵を出し合って話し合ったといわれる。

〇観音院の不動明王

 荒削りの不動明王であるが、右手に太い剣を持ち、唇をかみしめ、眼をかっと見開いた形相は、見る人を威圧するすさまじさがある。 しかし、不動明王の怒りは、他に対するものではなく、己れの内なる慾望や煩悩に向けられたものであるといわれる。

〇説法地蔵(仮名)

 地蔵は一般的に立像が多い。観音院の堂内には、半跏座像の地蔵菩薩も見られる。この地蔵は、座像で、右手は畏怖を除き安心を与える施無畏印を、左手は、願いを施し与える与願印をしている。 その姿は、人々の願いや悩みをきき、仏の法を説いているように見えるところから、説法地蔵などといわれている。

海雲山観音院

〇 青面金剛像は、嘉永5年(1852年)11月、度志山講中の人々によって建立されたもので、舟形の石面に半肉彫りで忿怒の形相、6本の手、天邪鬼を足下に踏まえ、その像の下側には、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が彫られた石仏である。青面金剛は、仏教における病魔払除けの青面金剛法が、中世期以降、道教の三尸(さんし)の思想(人間の身には三尸(3匹)の虫がすんでおり、庚申(かのえさる)の夜に昇天して、その人の過失や悪事を天帝に告げると寿命が短くなるという考え)と結びつき、庚申信仰の本尊として祭られるようになったのである。庚申講は庚申の夜に仲間が集って徹夜で祈り、飲食して、三尸の虫の昇天を防ごうとする信仰である。
〇 雙身歓喜天は、身体は人、頭は象の姿をした二天が抱きあっている形をした石仏である。風化が甚しく建立年代ははっきりしていない。  歓喜天はインド古代神話の中で、カナバチと呼ばれ、魔生の集団の王で、仏教修行の誘惑者であったが、後に仏教に入って、魔性を排除するシンボルとして再生した神である。

説法地蔵

参考資料:『滑川の歴史と景勝』画像を一部転載

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